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神戸と阪神タイガース

皮膚科部長  昆 宰一

  私は昭和33年4月、国立東京第2病院でのインターン終了後、岩手医大皮膚科、泌尿器科教室に入局した。
 そして昭和34年3月、慶応大学医学部生理学教室に線溶凝固系の研究指導を受けるために内地留学した。
 当時、生物学教室には3人の教授がおり、私はまず岡本彰祐助教授より、直接の指導を受けるようになった。
岡本先生にはその後、神戸医大の教授(後に医学部長)に就任することになったので、私も神戸医大に行くことになった。
 昭和36年神戸医大生理学教室の新しい研究室の体制ができたのでくるようにというお話があったので、私の神戸行きが具体的になった。
 教室では臨床各科から多くの研究生が勉強にきていた。
ここで私は、線溶凝固系の研究を指導されながら、これを岩手医大の教室でどのように生かすべきか、できるだけ吸収しようとした。
 線溶凝固系は臨床各科においても、出血、血栓をめぐって、比較的多くの科において関心を持たれていたので、岩手医大においても次第に他科の領域にも必要となってくる傾向があったので、以後、何度も神戸に出張する機会が増えてきた。
 さらに新幹線が開通されるようになったので神戸に行くことは比較的苦にならなくなってきた。
 神戸での私は、神戸医大生理学教室に臨床から研究にきていた。 
皮膚科、整形外科、外科、内科の先生方と友人となり、研究を一緒に行いながら数多くのアドバイスを受けた。 その中の一人で、皮膚科の前田一郎先生には同じ皮膚科ということもあって、よく話すようになった。
 彼は野球が好きで阪神タイガースのファンであり、私が神戸に行く都度、二人でよく甲子園の野球を見学に行った。
 このことが現在まで私を阪神タイガースのファンにしたと今でも考えている。
 神戸は独特の街で大阪、京都にない異国ムードのある都会であり、医学部の研究も外国の文化を取り入れた。他に例のない雰囲気を持っていた。
 朝から午後5時まで実験、午後2時発表、ディスカッション、これが終了すると甲子園に行った。
そしてそこには常に阪神タイガースの試合があった。試合後、神戸三ノ宮に帰ってきて、勝つと居酒屋で飲みながら六甲おろしを夜遅くまで歌った。
 プロ野球創設以来、7度の優勝を遂げた阪神タイガース、それらはいずれも来るべき時代の変革を象徴するような歓喜の瞬間だった。 そして今、平成の大不況にあえぐ日本社会において、達成された阪神の8度目の優勝に日本中が歓喜にわいている。
 特に私が知る限り1985年(昭和60年)の優勝は今でも強い印象として心に残っている。 
このときの阪神はすっかり打のチームであった。
 中西清起、池田親興など投手陣の踏ん張りもあったが、打撃陣の活躍がものすごかった。 
ランデー・バース、掛布雅之、岡田彰布の各は今でも心に強く残っている。
 川藤幸三は当時をこう回想している「あの時のタイガースはハレー彗星や、日本シリーズだって、管理野球に負ける気がせんかった。タイガースというチームは、絶対、檻の中に入れたらあかんのや」 あれから18年たった。
今、日本はかつてない大不況でもがき苦しんでいる。
 この時、達成された阪神8度目の優勝に時代はどんな姿をさらけ出してくれるのだろうか。
 この優勝について、その軌跡を少し要約してみた。1990年代、それは阪神にとって苦しみの多かった時だった。
 92年に2位になるが、以降は下位を低迷、それを打開せんとして野村監督に3年契約で再建を託したりもした。
 それでも結果は出なかったが、そうした時代は、いわば下積み、大輪の花を咲かすまでの雌伏の時ととらえよう。
 21世紀になってわずか、星野監督就任になって今、見事な花を咲かせた。 

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